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【東京大学】昆虫脳をスパコン「富岳」で完全再現する! 【東京大学】昆虫脳をスパコン「富岳」で完全再現する!

【東京大学】昆虫脳をスパコン「富岳」で完全再現する!

東京大学先端科学技術研究センター
神﨑-生物知能研究室

加沢 知毅 特任研究員
加沢 知毅 特任研究員
KAZAWA Tomoki
東京大学先端科学技術研究センター
神﨑-生物知能研究室
専門:ニューロインフォマティクス

ムシの脳みそ——といってあなどってはいけない。アリが巣に戻ったり、ハチが花粉を集めたり……昆虫は小さな脳を駆使しながら、現在のAIでも難しい状況認識・判断を瞬時に行っている。この昆虫脳をコンピュータ上で再現するユニークな研究がある。東京大学先端科学技術研究センター加沢知毅特任研究員に「昆虫全脳シミュレーション」について聞いた。

昆虫脳の研究から「知能とは何か?」に迫る

進化が加速するAI(人工知能)だが、人間の脳を完全に再現するにはまだまだ多くのハードルがある。その大きな理由は、味覚、嗅覚、触覚にあたる感覚器官からの入力情報をデータ化することの難しさにあるという。確かに視覚、聴覚の入力情報がデータ化されている事例は、画像生成や音楽生成のAIの発展ぶりを見れば明らかだ。では、人間の五感を完全に再現するAIはいつ実現されるのか?

そもそも知能とは何か——。この謎の解明に向けて、ユニークなアプローチで挑んでいる研究者がいる。東京大学先端科学技術研究センター加沢知毅特任研究員だ。研究テーマは、「ニューロインフォマティクスを用いた昆虫全脳シミュレーション」。スーパーコンピュータを使って、昆虫の脳をシミュレーションで完全に再現する研究に挑んでいる。ニューロインフォマティクス(Neuroinformatics)とは、脳神経細胞をデータサイエンスで明らかにする研究分野と考えていいだろう。

、脳神経細胞をデータサイエンスで明らかにする

「人間のニューロン(脳神経細胞)は、860億個あると言われています。これに対し、ショウジョウバエのような小さな昆虫のニューロンは10万個程度です。昆虫の脳は、人間と比べると非常に小さく、ニューロン数も少ない。そこで、人間の脳は無理でも昆虫の脳であれば、コンピュータ上で完全に再現できるのではないかと考えました」

アリが巣に戻ったり、ハチが花粉を集めたり……昆虫は小さな脳を駆使しながら、時々刻々と変化する状況を知覚し、素早く判断しながら自らの行動につなげていく。これは、現代のAIでもなかなか難しい作業だという。昆虫の脳は、小さくても複雑な情報処理ができる「効率脳」だといえる。

スパコン「富岳」で昆虫全脳シミュレーション

そんな昆虫脳をデータで再現するために、加沢先生は、10年以上前からカイコガを使って実験を行ってきた。まず、脳のニューロンに微細な電極を突き刺し、電気的な活動を記録する。さらに、そこから色素を注入し、共焦点レーザー走査型顕微鏡などを使って脳全体を3次元的に形態解析していく。こうして、一つひとつ脳神経回路の構造を解明し、独自にデータベース化してきた。そして、この地道な作業に、最先端のデータサイエンスが飛躍的進歩をもたらす。

「ここ10年ほどで、昆虫のニューロンのデータベースが急速に構築されました。世界的にはショウジョウバエの脳研究が盛んで、ニューロンの大規模データベースが公開されている。現在のオープンサイエンスの世界では、これらを自由に使って研究ができます。そこで現在は、カイコガの神経細胞データベース研究で得た知見を活用しながら、ショウジョウバエの全脳シミュレーションに取り組んでいます」

加沢先生がデモで見せてくれたパソコンのモニターには、無数のニューロンが発火する様子が映し出されている。ショウジョウバエの脳の神経活動をリアルタイムでシミュレーションした映像だ。

全脳規模ショウジョウバエシミュレーションの800細胞分の可視化
全脳規模ショウジョウバエシミュレーションの800細胞分の可視化

研究では、ショウジョウバエの脳を観察した2種類の大規模データベースを主に活用している。ひとつは台湾の研究チームが手がけた光学顕微鏡の観察データ「FlyCircuit」、もうひとつがは米ハワード・ヒューズ医学研究所とグーグルが手がけた電子顕微鏡の観察データ「Neuprint」だ。

ニューロンが発火する様子は、光学顕微鏡でしか観察できないが、電子顕微鏡のデータにも独自の強みがある。そこで、まず光学顕微鏡のデータをもとにニューロンの位置関係や種類を解析した後、機械学習などを用いて電子顕微鏡のデータを解析し、ニューロン同士をつなぐシナプスの結合などを推定していく。こうして、ショウジョウバエの脳神経活動を可視化する約2万個のニューロンで構成されたシミュレーションモデルが完成した。

「ショウジョウバエの脳全体の約5分の1にあたる2万個のニューロンで構成された神経回路を再現することで、高度なシミュレーションが可能になりました。実験では、スーパーコンピュータ『富岳』を使って、シミュレーションを行い、学習や記憶といった脳の高次機能の再現に成功しました」

学習や記憶など脳の高次機能の謎に迫る

学習や記憶など脳の高次機能の謎に迫る

ここで少し話を整理しよう。研究の目的は「知能とは何か」を解明すること。そのために加沢先生は、ショウジョウバエの脳全体をコンピュータ上で再現するシミュレーションモデルを開発した。それを用いることで、ショウジョウバエの脳活動をデータで可視化できるという。

具体的なシミュレーションの事例を紹介しよう。ショウジョウバエは、匂いと味を関連させた学習ができる。例えば、特定の匂いを嗅がせながら砂糖水を与える訓練を繰り返すと、その匂いを嗅がせただけで、口吻を伸ばして砂糖水を探すようになる。つまり、昆虫も「匂い」と「味」という異なる刺激を組み合わせた「連合学習」が可能なのだ。このとき、訓練済みの脳内では、ニューロン間をつなぐシナプスの結合が学習に応じて変化し、神経回路の再構築が起きていることが観察でも明らかになっているという。

詳しく説明するとショウジョウバエの匂いと味の連合学習では、脳内で記憶をつかさどる部位「キノコ体」にある複数のニューロン間で、シナプスの結合が強まるとされている。そこで、今回の昆虫脳モデルに、匂いと味の刺激にあたる信号を入力し、スーパーコンピュータ「富岳」を使ってシミュレーションをしたところ、ショウジョウバエを使った実験データと同じ神経活動の出力が得られたという。

富岳を使ってシミュレーション

「つまり、学習や記憶といった脳の高次機能をつかさどるシナプスの変化を数理モデルで可視化することに成功したことになります。今後は、これを脳機能に関するさまざまな仮説の検証に応用していくつもりです。ポイントは、物理的な実験データとのマッチングです。例えば、実験データとシミュレーションのデータをリアルタイムで同期させることで、基盤となる数理モデルの精度を上げていくことができると考えています」

ここで再び知能とは何か——。インターネット上の膨大なテキスト情報を学習し、人間のように会話をするChatGPTは、果たして知能と呼べるのか。そんな議論が盛んに行われている。ChatGPTは、「松阪牛」がいかにおいしいかを饒舌に語ることはできるが、実際に食べたことはない。嗅覚や味覚の「データ化」は、AI研究の大きなテーマとなっている。加沢先生の昆虫脳の研究は、まさにその課題にアクセスするものだ。

「人間を対象として、知能とは何かという議論をすると哲学的な話になりますよね。ただ、言語や数学の理論以前にも知能は存在します。巣の場所を覚える、花を探す、ケンカをするといった動物の行動も立派な知能だと私は考えます。AI研究において、こうした動物的な適応行動のデータは圧倒的に足りていません。昆虫脳の研究は、こうした動物的な感性をつかさどる機能を明らかにすることにも役立つのではないでしょうか」

「知能とは何か」=「学習とは何か」

加沢先生にとって、「知能とは何か」を考えることは、「学習とは何か」を考えることに等しいという。前出の砂糖水の例でいうとショウジョウバエは、特定の匂いを嗅ぐことで、砂糖水という報酬を予測し、口吻を伸ばす。つまり、昆虫は報酬を与えられることで学習する=シナプスの結合が変化する。

このとき脳内では、「報酬予測」と「行動」をつかさどるニューロンの発火が同時に起こる。そこで、行動はいいものだと事後評価され、何らかの痕跡が神経回路に蓄積されていく。 つまり、「知能=事後評価システム」ということになる。

知能=事後評価システム

AIのディープラーニング(深層学習)は、脳の神経回路を模したモデルとして知られている。進化が著しい一方で、計算に膨大な電力エネルギーが必要になる。これに比べ、人間の脳はAIと比べて、消費するエネルギーが格段に少ない。昆虫脳に至っては、本当に微々たるエネルギーで動いている。加沢先生は、ここにも可能性を感じている。

「多感覚の認識、行動の連鎖、帰巣行動など、昆虫の神経回路が実現する知能をデータで可視化する研究は、AI開発や人間の脳の解明にも応用できると思っています。また、昆虫脳の構造解明は、AIの省エネ化のヒントになる可能性もあります。そして、最終的には、昆虫全脳シミュレーションを実現して、知能はどのように生み出されるのかという大きな謎に挑みたいと思っています」

【プロフィール】

加沢知毅
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

1967年生まれ。茨城県出身。名古屋大学理学部物理学科卒業後、同大学院理学研究科博士課程満了。筑波大学生研機構派遣研究員を経て、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員。現在、スーパーコンピュータ「富岳」を使った昆虫全脳シミュレーションの研究プロジェクトを率いる。

【研究室の詳細】

東京大学先端科学技術研究センター 神﨑-生物知能研究室

昆虫が獲得した感覚・脳・行動の機能や機構の解明は、工学設計においても重要な手本となるという考えのもと、昆虫科学により自然と調和し共存するための新しい科学と技術の世界の開拓を目指している。昆虫の嗅覚による適応能力を評価し、その神経機構を解明する「昆虫-ロボット融合システム(サイボーグ昆虫)」、スパコン富岳を使った「昆虫全脳シミュレーション」などの研究が進められている。

Text by 丸茂健一(minimal)/Illustration by 竹田匡志

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